みなさま、こんにちは。

お釈迦さまの右下のあるのは、6日の東京講演会のしんめいPさんのトークイベントの際に、机に飾られていたお花です。
6日は600名を超える方々にお越しいただき、学び楽しめる仏教デーを作り上げることができました。ありがとうございました。
さて、翌々日の月曜日、9月8日は満月の夜の開門でした。17:00前から、お茶の準備やお布施のパンを切ったりする方々がいらっしゃいましたし、瞑想実践に励まれる方もいらしたのですが、いつもより集まる人は少なく、静かな精舎でした。
18:00より夜のブッダ・プージャがあり、プンナ師の導師で読経と慈悲の瞑想をいたしました。祝福の読経は、「諸仏の教え」と「慈経」と「日日是好日経」。なんとも贅沢な、有り難い、満月の夜になりました。
19:00からは『パティパダー・バックナンバー読書会』でした。プンナ師と在家10名で、3Fにてディスカッションをいたしました。

教材は2010年3月号のパティパダーの巻頭法話です。題名には『修行は独りでおこなう』と書かれてあります。しかし皆で読み進めると、スマナサーラ長老のご解説はハッとすることの連続です。
引用させていただくと…
一般人の生き方とは、環境に依存することです。環境に左右されることです。環境にすがることです。要するに、環境の奴隷なのです。
~略~
仏教の修行とは、環境によって心が揺らがないようにすることです。
~略~
正しく修行するためには、社会と一緒に、激しく変化する環境の中に身を置く必要があるのです。それで絶えず攻撃してくる情報によって、心が揺るがないようにする修行をするのです
また、
心を感情から、思考から守るためには、自分ひとりで精進しなくてはいけないのです。心が汚れないようにして下さいと、他人に頼んでも、それはあり得ない話なのです。自分ひとりで、他人に頼らず、精進しなくてはいけないのです
と。
初めてご参加くださった方から、
「瞑想会や合宿に行って大勢の中で瞑想実践をしていても、心は独居修行なんだと、腑に落ちました」
というご感想をいただきました。
プンナ師は、
「環境に依存するとは、《この私》で生きているということです。大勢の中に居ても、実況中継で自己観察をしていれば独居です」
と教えてくださいました。
また、修行中によく引っかかってしまうことの例として、
「これをやったら何かがわかるだろう」→「これをやったら《私に》何かがわかるだろう」
「一時間、歩く瞑想をやったら、何かひらめくだろう」→「一時間、歩く瞑想をしたら、《私に》何かひらめくだろう」
「無常、無我と言われても、わからないのでは?」→「無常、無我と言われても、《私には》わからないのでは?」
と、隠れている《私》を持ったまま実践しても何を思っても、何も得られないことを説いてくださいました。ただ実況中継に集中して取り組んでいくところに、独居の心が現れるのだと。
なにやらすごく難しく、深いことに聞こえるのですが、読書会はお陰様で、常に笑いもありつつ、真剣な対話もあり、の穏やかな会となりました。
ありがとうございました。

菩提樹様はこの日もお元気。
どうぞよろしくお願いいたします。
生きとし生けるものがしあわせでありますように。