『食事のお布施』の素晴らしい世界
食事のお布施についてちょっとお話します
アルボムッレ・スマナサーラ長老
仏法僧と自分との関係をつくるために
タイ、ミャンマー、カンボジア、スリランカなどのテーラワーダ仏教の世界で在家信者がいちばん喜んでやっている善行為は、出家者に食事をお布施することです。食事のお布施をすることで、仏法僧の三宝と、自分との強いコンタクトができると考えるからです。
お釈迦様は、食事のお布施こそ在家ならまっさきにやるべきことと仰っています。サンガ集団はお布施で生きているのですから、仏教を生かしてあげる、命をさしあげることであって、すごく大切なことなのです。仏教は並大抵の教えではないし、人間の知識では理解できたものではない。しかし仏教の信者さんたちは、ただお布施をすることでその仏教を生かしてあげることができるのです。別に難しいことを勉強しなくても、冥想なんかやりたくない、お勤めのお経なんかあげたくない、という人がいたとしても、お布施しない在家信者さんはいません。お布施は伝統的にとても大切なことで、また実際にやってみると、自分の身体で幸福を感じられると思います。「これは仏法僧に対する布施であって、自分たちが仏法僧に縁をつけることである」という気持でやってみると、大変幸福を感じますし、祝福・お守りの波動が身体に入ってくるのです。お釈迦様の言葉によれば、お布施する人は決して倒産しないし、不幸にはなりません。私はスリランカに帰るとサンガにお布施をします。私のような出家でも、サンガにお布施するときはずいぶん違うものだなぁと思うのです。スリランカではお布施を派手なスケールでやっていますが、法事にお金がかかって困ったなぁと思ったとたん、誰かが助けてくれて何とかなってしまう。サンガヘのお布施を清らかな気持ちで行うと、ずいぶん上手くいくものです。仏法僧と自分とのつながり、関係が成り立つのです。
みんな仏教の家族・フアミリーになれる
こちらに来る人も、一回だけ冥想会に来てそれっきりとか、本だけ買って読むとか、それだけではちよっと親しみは感じられないところがあります。それはテーラワーダ仏教の世界から見るとちょっとマズイ。仏教の世界はみんな家族・ファミリーです。大勢の人々が民族や皮膚の色は関係なく、女性・男性、年齢も関係なく、兄弟姉妹の気持ちでいるひとつの家族なのです。家族と言っても他宗教のように排他的で、神を信じていない連中は出て行け、という恐ろしい発想ではありません。同じ仏教を支える仲間だという感覚は、食事のお布施をしていると出てきます。みなさまもウェーサーカ祭などの準備に早朝から夜遅くまでかかっても、何となくやりたくてたまらない、楽しい気分は経験していると思います。「ああやっと終わった」というよりは、「よかったよかった」という気持ちで終わるでしょう。それはブッダから我々に放たれる慈悲のエネルギーのおかげなのです。
お釈迦様がすすめたお布施の方法
だから、お布施などの善行為もどんどんしたほうがいいと思います。いまも皆さんはお布施をものすごくしてくれていると思います。しかしちょっと微妙な問題があるんです。ご飯をつくって差し上げることは、お金でお布施するより安くでき上がります。しかし、同じお布施でも食事のお布施には微妙に差があるのです。ひとつは戒律上、ブッダはお金に反対なのです。お金を貫うと、とんでもない迷惑になるんだと仰っています。食事はそのときに食べたらきれいさっばり消えるものだから、それをお布施の第一に決めてあるのです。というわけで、一言で「お布施」と言っても食事をお布施する事は「お釈迦様の教えに従っているお布施」だから、ちょっと功徳の力が、働きが違うんです。お布施を通じて、私たちは仏教の世界で、大きな家族の中で気楽に安心して生きていられます。たとえ一人暮らししていたとしても、お布施した経験のある人にはひとりぼっちという感じがなくなります。私なりに「自分が仏法僧を生かしているんだ、大したもんだ、役に立っているんだ」という気持ちになれます。だから食事のお布施の功徳はとてつもないのです。
私はこれまで、あえてお布施の話をしない事にしていました。しかし、いまは私以外にも(出家で)お布施を頂いている人がいますから、ちょっと話しています。
分かち合ってこそお布施の意義がある
仏教は慈悲の世界だから、他の人を心配する世界だから、いかなる場合でも在家に迷惑はかけたくないという仏法僧の側の考え方があります。お釈迦様の時代から、出家はお布施を受けることで、微妙にでも相手に迷惑をかけないようにと戒められているのです。
いま皆様がやっているように、毎週決まった何人かが出家の食事のお布施をすることは、どう考えても個人への負担が大きすぎます。私は、これは決していいことだと思いません。毎週何曜日は○○さん、何曜日は○○さんという話を聞くと、ちょっと心配だなという気持ちになってしまいます。ですから、これはスリランカのように月一回とか、年に一回とか、そういう風に決めてみてはいかがでしょうか。ちなみにスリランカでは、信者さんの数が大きいお寺の場合、だいたい食事のお布施は年に一回なのです。スリランカの私のお寺では檀家さんを四グループに分けて、一軒の檀家さんが一年に四回お布施します。その場合も朝食のお布施と昼食のお布施は担当を分けてあります。私が信者さんとケンカして、「そんなにこのお寺が嫌だったら、もうお布施なんかやめたらどうですか」と言っても、逆に信者さんは「いいえ、お布施だけはやめるもんですか」と決して食事のお布施当番だけはやめないのです。「お寺にはもう行きたくない」とか言いながら、お布施の権利のチケットだけは手放そうとしない。ずっとやってきた善行為をやめてしまったら、その家にとっても良くありませんから。
仏教の「先祖供養」は食事のお布施式
日本ではそういう伝統がないということをまず理解してください。伝統がないのが悪い、というのではなく、私たちは仏教を通じて、もっと人間に喜びを感じられる習慣を紹介してあげたいのです。たとえば皆さん方は親類の命日などにお寺に行ってお経をあげたりして法事をしているでしよう。それでもそんなに心の喜びは感じないと思います。あれは日本に元からあった先祖崇拝の信仰であって、仏教の信仰ではないのです。皆さんはお墓参りすることが仏教行事だと助違いしていますが、あれは日本に伝統的にあった先祖崇拝信仰です。それを仏教が乗っ取ったのです。そう言うと大乗仏教のお坊さんから怒られるかもしれませんが、べつに悪いことではなく、土着の信仰であっても人間の優しさを表現するよい習慣だったらこっちでやってあげるのは仏教のやり方です。もちろん、仏教でも先祖供養する習慣はあります。初七日とか、四十九日とか、一周忌とか言っているのは仏教の習慣です。日本の伝統習慣はお盆とお彼岸だけですが、それにお寺が命日とかいろいろアレンジをして仏教習慣にしたのです。
一方、テーラワーダ仏教に伝わる仏教オリジナルの先祖供養の習慣は、出家のお坊様方に食事をお布施して、なくなった先祖の方々にお坊さんと一緒に回向することなのです。回向の儀式は簡単なお経をあげるだけですぐに終わるので、ずうっと正座して足がしびれるなんてこともありません。お坊様にご飯を召し上がってもらって、在家の方々も残ったものをみんなで食べて、回向の儀式を二、三分でやって、楽しい話をして終わるんです。これだけで先祖への回向になった、しっかり先祖供養ができた、という実感を得られますよ。大切な亡くなったおじいさま、おばあさま、先祖の方々に対して、ホントに意味あることをやりましたと感じられると思います。
仏教はお金で成り立つものではない
日本でやっているお墓参りのように、ご先祖に団子とかおにぎりとかお供えしても、あまり理性的・知識的ではないと思います。仏教でははっきり理性的・知識的な行為として、お寺に行って、あるいはお坊さんたちを自分の家に呼んで、お食事のお布施の法事をするのです。その時はお坊さんたちも確実に、「この方々のためにやっている」ということを理解して食事をいただくので、ものすごく力強い回向になります。ブッダによって説かれたお布施のしきたりを学んでいけば、それが如何に素晴らしい行為かと分かると思います。
そこで最終的に言いたいことは、我々にはたくさんメンバーの方がいるし、その方々にも連絡してあげて、みんなで食事のお布施をするようにしてはどうか、といぅことです。普通にお金をお布施したり寄付したりすることによって、日本のテーラワーダ活動は成り立っていますが、仏教はお金で成り立つものではないのです。心と、善行為と、お互いすごく親しみを持って心配しあう気持ち、それらによって成り立つものです。ひとことで言えば、「仏教は心で成り立つもの」なのです。組織的な仏教は皆様のありがたい寄付で成り立っていますが、それはあくまでも現代的で組織的なセクションです。ブッダが説かれた偉大なる聖なる清らかな仏教、いわゆるスピリチュアルなセクションは、出家も在家もお互い兄弟のようにすごく心配しあって、言いたいことを言い合ってケンカしたりしながら仲良くすることなのです。そういう関係は在家が出家に食事をお布施することで成り立つのです。
先祖の命日はまとめてもいいもの
一年に一回くらいならそれほど負担も感じないし、自分の家の命日にお布施するのでも構いません。仏教の世界ではご先祖様の命日がばらばらであっても、まとめて回向することは可能です。ですから「自分の家のご先祖様の命日はこの日」と一日にまとめることはできます。例えば誰か家族みんなに尊敬されていた方の命日を自分の家の命日と決めて、そのほかの忘れがちなご先祖様の命日もそれにあわせて供養すればいい。この日が我が家の命日、という風に一日決めることができます。そうすれば三百六十五の家の人々がブッダの世界に参加することができる。でも三百六十五でリミットをつけなくとも、たとえば今日は三人いるとしたら三人一緒にお布施してもいいし、お布施するものが被ってしまったならその分は協会のいろいろな費用にとお布施してもいいし、突然現れるお坊さんの必要に使えますから、お布施の功徳がなくなるということはない。とにかく自分で思ってもみなかった善行為に使われることもあり得ますから、そうやってみんなで分け合ってお布施をした方がいいと思います。
そうすれば皆さんの負担にならないし、それによって仏法僧とのすごく親しみある関係が成り立つのです。何か困ったときは、その時に限って仏法僧がよく守ってくれることが感じられると思います。それは私も日々感じていることです。困ったなぁと思ったらもう二、三分で、びっくりするほど変わってしまう。だからほとんど困ることなくなっていて、それで困っているくらいです。人間は困ることで頭が働くのだから、困らない私はもうボケ始めています。どうしようかなぁ、嫌だなぁと思うともう解決してしまうのだから。そういう素晴らしい世界なので、お布施を頑張ってみてください。
仏教を次世代に伝えるために
それから、次世代に仏教を伝えるためには出家者が必要です。しかし、出家を希望する人に「私は出家したい」と言われても私はちょっと困ってしまう。仏教にはそもそも托鉢の習慣があるから、出家したい人々は何のことはなく、とことん出家させればいいのです。しかし現代の日本で出家させてもどうやってて食べていくのか、という問題があります。ブッダは托鉢しなさいと仰います。日本で托鉢したらどうなるでしょうか? 田合ならばできるでしょうが……。べつに日本人がお布施したくないわけではないのです。社会環境が変わってしまってみんな大きなビルの中で鍵をかけているから、コンタクトができないだけ。皆様の心は決してタイやミャンマーの人に負けていませんよ。寄付する気持ち、人を助ける気持ちでは誰にも負けない心を持っています。ただ社会環境が変わったから、みんな自分だけのことに閉じ込められているのです。これって可哀想なことです。ひとりでいると悲しくなっちゃうのです。だからといって都会では托鉢の習慣はなかなか紹介することもできない。戒律上、ピンポンとベルを鳴らして「テーラワーダ仏教協会のものなんですけど…お布施を受け取りに伺いました」とはできないんです(笑)。ただ黙って玄関で待つしかない。私のいるマンションの玄関で黙って待っていたら、お布施もらうどころか、三分で警察を呼ばれると思います(笑)。お釈迦様は出家の食事は托鉢と決めているのです。もし信者さんが特別に日にちを決めて食事を持ってきたら、それは特別な機会だと思いなさい、期待するなよ、という話です。いまは特別な機会で期待してはいけないことが普通になってしまっているのですが……。
シンプルに考えて楽しく善行為を
とにかく、これから出家したい方をとことん出家させて、とことん仕事をしてもらって、いろんな地方で仏教を拡げてもらいたいのです。これからの日本の社会に平和と平安を拡げるために、皆様方は国際的にも活躍しないといけない。日本で仏教が拡まると世界的にもかなりいい影響を与えられると思います。食事のお布施というのは大切な、想像できないくらい多方向に発達していく善行為なのです。それが一人ひとりでなんの苦労もなく、なんの負担もなくちょっとしたことでできるのです。一年に一回、二、三人にご飯を作ってあげるくらいのこと、私にでもできます。もし「あなたもやってくださぃ」と言われたらどこかに注文して料理を作ってもらって、何のことなく出します。人間が食べるものだから、ぜんぜん負担とは感じません。私たちは毎日そうやって生きているのですから。
だから勇気を持って、もう少しお布施の輸を広げたほうがいいと思います。皆さんは何でも考えすぎなのです。ずいぶん気楽に、「四人くらいのご飯でしょ? そんなのどっかの弁当持って行けばいいじゃないか」というくらいに考えればいいのです。みんな毎日、食事を作って食べているのだから、大げさに考える必要はないのです。サンガにお布施するときはそれなりに我々も配慮して大げさに儀式をしますが、それは一年に何回かしかないことです。通常のお布施は二、二人のお坊様に食事を差し上げることだから、シンプルに考えた方がいいと思います。
私は出家を希望する方々はどんどん出家させたいと思っています。そのなかで、ちゃんと比丘として活動できる知識的な能力のある方々が出てきたら、さっさと教育したいという気持ちもある。そのために克服しなければいけない第一が食事の問題で、第二に出てくるのは泊まる場所の問題ですが、それはこれから何とかなるのではないかと思います。そういぅことで、まず食事のお布施について頑張っていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
この記事は、パティパダー2006年8月号に掲載されたものを転載しています。(編集 佐藤哲朗さん)